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名古屋高等裁判所 昭和62年(う)30号 判決

主文

原判決を確棄する。

本件を名古屋地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人内藤義三が作成した控訴趣意書及び昭和六二年七月一七日付上申書(但し、弁護人の当審第一回及び第三回公判調書中の釈明参照)に、これに対する答弁は、検察官山岡靖典が作成した答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中、事実誤認の主張について

所論は、要するに、被告人は原判示の日時場所において原判示の自動車(以下「被告車両」という。)を運転していたけれども、そのとき被告車両が一〇五キロメートル毎時以上の速さで進行していたことはなく、かつ、原審で取り調べられた各証拠によつても(右各証拠を、物理法則などの経験則に照らして吟味してみると)被告車両が原判示の日時場所で一〇五キロメートル毎時以上の速さで進行していたことを認めることはできないから、原判決が被告車両は原判示の日時場所で一〇六キロメートル毎時の速さで進行していた旨認定判示している点で、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというのである。

所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実の取調べの結果を参酌して検討してみる。

一まず、原審で取り調べられた各証拠によると、被告人が原判示の日時に原判示の高速道路下り線479.4キロポスト付近道路において被告車両を運転していたこと、この道路は道路標識等により最高速度が八〇キロメートル毎時と指定されている道路であること、及び、被告人が右運転の当時道路交通法一二五条二項各号のいずれにも該当しない者であり、更に右運転の際の最高速度違反について同法一三〇条但書各号に掲げる場合のいずれにも該当しないことが明らかであるところ、本件公訴事実は被告人が原判示の日時場所において被告車両を前記指定最高速度を超える速さで進行させたというものであるから、本件被告事件においては、原判示の日時場所において被告車両が一〇五キロメートル毎時以上の速さで進行していたことが証明されなければならないことは、道路交通法一三〇条本文、同法別表に照らして、いうまでもないところである。

二そこで検討するに、原審で取り調べられた各証拠によると、以下の事実が認められる。

1  京都府警察本部交通部高速道路交通機動隊所属警察官田中正憲(以下「田中」という。)は、原判示の日時に同機動隊所属の覆面パトカー(以下「本件パトカー」という。)を運転して、本件パトカーの助手席に同乗している同機動隊所属警察官藤高雅幸(以下「藤高」という。)と共に、原判示の高速道路下り線における交通取締りをしていたが、その際、被告車両が本件パトカーを追い抜いたのを現認し、暫く被告車両を追尾し、被告車両が京都市内に入つたころ被告車両(先行車)と本件パトカー(追従車)との車間距離を約五〇メートルから約四〇メートルに詰め、藤高に「車間よし。測定開始。」と声を掛け、藤高がこれを了解したので、その後は前記車間距離を約四〇メートルに保持しながら、平坦なアスファルト舗装道路上で本件パトカーを約三〇〇メートル進行させ、この約三〇〇メートル進行の最終時点(そのとき、被告車両は原判示の「下り線479.4キロポスト付近道路」を進行中であつた。)において藤高が本件パトカーの速度計の指針が測定開始からずつと不動状態であつたことを確認し、直ちに右速度計(以下「本件速度計」という。)のストッパー(指針固定装置)を作動させた。

2  その後間もなく、本件パトカーによつて停止せしめられた被告車両から下車した被告人は本件パトカーの後部座席から本件速度計の指針を確認させられたが、そのとき、右指針は一〇六と一〇七との中間を指示しており、このことを被告人も認めたので、二六キロメートル毎時超過という交通事件原票が作成され、これについて被告人は格別異議を唱えないまま、右原票の供述書類に署名指印した。

3  田中は、昭和五〇年四月一日京都府巡査に任命され、その後、京都府下警察署外勤課に勤務し、昭和五五年四月に交通課第一係に転じ、昭和五八年一〇月以降前記交通機動隊で勤務している者で、前記1のような追尾測定方式の速度違反取締りについては、前記1の追尾測定の時点で約七か月の経験を有するが、この七か月のうち当初の四週間は前記1のような追尾測定の訓練を受けていた者であり、また、両眼とも1.5の視力を備えていたが、前記1の追尾測定においては、走行車線と追越し車線との境をなす白色破線(長さ八メートルの白線が一二メートルの間隔で描かれているもの)を目安とし、右白線二本と空白部二か所とが被告車両と本件パトカーとの間に置かれているという状態を視認しながら本件パトカーを運転し続けるという方法で、被告車両と本件パトカーとの間の車間距離約四〇メートルの保持に努めていた。

4  本件速度計は毎月一回(最後は昭和五九年五月一日)京都府警察自動車整備工場で速度計試験機(被検査車両の駆動輪のタイヤ圧を二キログラム毎平方センチメートルに調整して、この車輪を試験機の二個のローラー上で―この車輪の下部がこの各ローラーに挟まれる状態で―回転させることによつて回転するローラーの回転速度に基づいて、被検査車両の速さを算出測定する装置)による照合検査を受けていたが、右検査の際には、本件パトカーの実際の速さを超える速さが本件速度計に指示されることのないように、かつ、本件パトカーの実際の速さを一キロメートル毎時下回る速さが本件速度計に指示されるように本件速度計が調整されていた。

三ところで、夜間一〇〇キロメートル毎時以上の速さで進行中の本件パトカーの運転者たる田中が本件パトカーの進路前方約四〇メートルを進行中の被告車両の車体後部を見ながら、かつ、前記のように白色破線の数を見ながら、本件パトカーと被告車両との車間距離を常時一定に保つていることは、たとえ本件パトカーの速さが常時一定に保たれている場合であつても、肉眼による車間距離の判定能力(これには、眼ことに眼球の位置の固定や視線したがつて視角の固定の能力なども含まれる。)の限界にかんがみて、被告車両の速さの変化が微細のときには極めて困難であり、もし、一〇七キロメートル毎時以上一〇八キロメートル毎時以下の速さで進行中の本件パトカーの進路前方を本件パトカーと同じ速さで原判示の場所の29.7メートル位手前(原判示の時間の約一秒前)まで被告車両が進行してきた(この進行をもつて、被告人を処断するには訴因の問題が生ずる。)としても、被告車両の速さがその後減少して原判示の日時場所で一〇五キロメートル毎時未満(104.99キロメートル毎時)にまでなつていることもありうるが、かかるときでも、本件パトカーと被告車両との車間距離が一秒間にせいぜい83.3センチメートル位減ずるに過ぎないのであり、かかる微細な車間距離の変動の有無や程度、ひいては、被告車両の速さの変動の有無や程度を田中が感知していたとするには、道路のわん曲や勾配状況の変動の有無や程度、田中の受けた前記二3の訓練ないし経験の程度やそれによる田中の視認能力の向上の程度、つまり、結局のところ、田中の車間距離保持状態の確認の精度を検討する必要があるが、この検討をなすについての資料は、本件においては、証人田中正憲の原審公判廷における供述のほかにはほとんどない。

四次に、本件パトカーの速さについても、

1  本件速度計は本件パトカーの車輪の回転数を捕捉し、これに比例する数値を指針で指示する装置であるところ、この車輪の接地面と回転中心軸との間の間隔が前記二4の検査時と原判示の日時との間でもなお同一であつたか否か、すなわち、その間におけるタイヤの摩耗の存否とかタイヤの空気圧が前記二1の追尾測定の際にも二キログラム毎平方センチメートルであつたという事情を明らかにしうる資料が何ら見当たらない本件では、前記二1の追尾測定の際の本件パトカーの速さが一〇五キロメートル毎時未満であつたかも知れないという疑惑が残されているのみならず、

2  前記二4の検査の正確性についても、試験機ローラーの回転中心軸と右ローラーに被検査車両の車輪が接する部分との間隔が正確であつたかというような事情を明らかにしうる資料は本件では極めて乏しい。

五以上説示した諸点にかんがみると、前記二2の事実があるにもせよ、原審で取り調べられた各証拠をすべて子細に検討してみても、更には、右各証拠に当審における事実の取調べの結果を参酌して検討してみても、被告車両の原判示の日時場所における実際の速さが一〇五キロメートル毎時以上ではなかつたのではないかという合理的疑惑が残されているといわざるをえない。

以上のとおり原判決は、原審で取り調べられた全証拠によつても右の合理的疑いがまだ解消されていないのに、右疑いの点について審理を尽くすことなく、被告人が一〇六キロメートル毎時の速さで、すなわち指定最高速度八〇キロメートル毎時を二五キロメートル毎時以上超える速さで被告車両を運転したと認定判示したものであつて、この点において、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわざるをえない。論旨は理由がある。

よつて、控訴趣意中、その余の主張に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、前記の疑いにつき更に審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である名古屋地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(なお、この判決における道路交通法一二五条及び別表は、昭和六一年法律第六三号附則四項による改正前のものをいう。)

(裁判長裁判官山本卓 裁判官油田弘佑 裁判官向井千杉)

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